ボクは誰? Who Am I ?

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ボクは高校生

ボクは高校生、別に高校に行きたいから通っている訳じゃない、中学を卒業した後、次に行くところが高校だから高校に行く事にした。
こう言うと、まるで自分の意志で高校生になったみたいだけど、多分違う、子供の頃から観ているアニメやドラマの影響? それとも親が高校に行って欲しいと思っていたから? 働きたくなかったから? そういうものだと思っている。多分その全部の要素が少しずつ合わさった結果だと思う。
しかしおかしな話である、高校に行かなかったら仕事をしなければならない? ホントにそうなんだろうか? 別に仕事しなくてもいいよね。まだ15歳なのだから仕事しなくたって別にいい、でも何かをしなければならない、という風潮がある。現代日本においては、必ず何かをしなければならないらしい、そのしなければならないに”遊び”は入らないらしいし、寧ろ何もしていないのに遊んではダメらしい。
何かしたい事が見つかったらすればいい、とは言ってはくれないのだろう、だからボクは高校に通っている。

ボクは中学生

こんな奴だから、当然中学でも勉強しなかった。授業中は眠くてたまらなかった。でも、授業中に寝ると先生に怒られる、だからバレないように寝る様に心がけた。まわりのクラスメイトから「又、あの子寝とるよ」 という声が聞こえてきたが、人にどう思われようと実害が無ければ、どうという事はない。実際に先生には一度も怒られた事がなかった。中学生にもなると、何でもかんでも先生に言いつけるクソガキ精神も薄れるらしい。

ボクは小学生

ボクは本当に、このクソガキ精神が嫌いだ! 小学生の頃、よくこのクソガキ精神に悩まされた。小学二年生の時、学校の裏庭に何故か粘土が落ちていた。ボクはそれを拾って友達の鉄雄君と、その粘土をちぎって校舎の壁に投げて引っ付ける遊びをした。数日後、先生に放課後ボク一人残るように言われた。他の生徒が帰った後、ボクは先生の机の前に立っていた。「何で残されたか分かる?」(・_・?)????何も思い浮かばなかった。すると先生は、何かをちぎって投げるジェスチャーをした。ボクは咄嗟に「あっ! 鉄ちゃんも…」「言い訳はいい!!」ボクの言葉は先生の恫喝に遮られた。ここで理不尽なポイントを3つ挙げよう。確かに悪い事をしたので怒られる事は仕方がないとしよう。

  • ポイント1. 何故かボクひとりが残された事。
  • ポイント2. 共犯者がいる事を無視した事。
  • ポイント3. ボクは言い訳をしようとした訳ではなく、事実を言おうとしたにも関わらず言葉を遮られた事。

特に、ポイント3について言及しよう。まず、言い訳をしようとした訳ではない。それによく、「言い訳をするな!」 とか言っちゃう思考力が ”0” な人間が多数存在する。それはいい訳ではなく”原因”だ! 原因を究明しなければ、同じ過ちが起こるのを防ぐ事が出来ないのですよ。「言い訳をするな!」 と言う人間は、ただ怒りをぶつけて溜飲を下げたいだけなのです。ボクは小学二年生にして先生への不信感バリバリになりました。
この教師を皮切りに、この先も尊敬に値する教師に恵まれる事はありませんでした。

存在意義

という事で、ド底辺高校一年生の誕生である。斯くしてボクは自分の愚かさの為に、ド底辺高校に通う羽目になった訳である。

では、ここで問題です。ボクがド底辺高校に通う羽目になったのは、小学生の時の担任の先生が全く尊敬できる要素を持っていなかったからでしょうか?
いいえ、違います。元々勉強や宿題をしていたのなら、そうかもしれませんがボクは自分がしたい事しか出来ないので、最初からしていません。気が進まない事は必要に迫られるまでいたしません。怒られたり、ぶたれたりしたぐらいでは宿題なんかしません。
命に係わるくらいの恐怖を与えられれば流石に動きますが、親や先生にそこまでの恐怖を与える事など不可能なので、何とか学校には通ってはいましたが、殆ど宿題をした記憶がありません。

学校生活でテストがある事を先生に告げられると、大体の生徒は声を揃えて「えー!」などという反応を示しました。その時、ボクは驚いたんです。だって、そこにいる全員が嫌そうな反応を示したからです。その時初めてテストは嫌なものなのだという事を知りました。ボクにとってテストは、別に嫌なものでは無かったからです。それは勉強をしなくてもテストで良い点数が取れるチート級な能力者だからとかではなく、悪い点数を取ったからといって、特に不利益が無かったからです。ボクの親は、悪い点を取っても何の反応もしませんでしたから実害はゼロです。寧ろテスト中は何もしてなくても怒られないし、テスト用紙の裏にでも落書きしていれば時間が過ぎるので、楽なものです。体育の授業を受けるよりよっぽどマシです。そうなんです! 世の中には勉強は苦手だけどスポーツが得意なんていう人が存在します。残念ながらボクはそのカテゴリーにも属しておりません。学校生活においてボクは ”無能力者” なのです。最早存在する意味すらありません。自己肯定感は、最低です。

ここでボクは自問自答する。

  • ボクは何故この世界に存在するのだろう?
  • 別に居なくてもいいんではないか?
  • この先、イイ事なんか起きるのだろうか?

”気が進まない事はしない主義” が通用するのは高校生までであろうから、したい事さえしてしまえばボクがここに存在するメリットって無いよね。
ボクがしたい事って何だろう?
「あー、ひとつ思い付いた」アニメが観たい、ボクが自分の人生で観るであろうアニメを全部観る事が出来たなら、この世に未練なんてない、悪魔とだって契約しよう。 しかし悪魔にしたってボクごときの命の価値で、そんな手間を掛ける程には暇ではないのであろう、世界には70億もの人間がいるのだから。

平等と差別と不公平

平等という言葉がある、”人は平等でなければならない” と小学生の頃から、そんな事を教えられる、勿論 ”差別” はいけない。確かにその通りだと思う。しかし、惑わされてはいけない、だからといって人の価値が同じという事にはならない。
仮に これから ”全世界を救う事になる人物” と ”ボク” が、同じ価値であるハズがない、イケメンに生まれれれば人生において ”ロールプレイングゲーム” で、いきなり最強の剣を手にしているのと同じくらい有利である、世の中は不公平だ!と声高に主張する人をたまに見かけるが、そんなの当たり前だろ、いい歳して そんな事も分からないのか?それとも、分かっていて何かの権利を得るためにそうしているのか?そんな恥ずかしい大人にだけは、なりたくないと思った。
ボクには価値が無い、よくそんな事を考える。しかし、人の価値というものは、その人との関係性によって変わってくるものだと思う。
ボクには、おばあちゃんがいます。おばあちゃんは、ボクにおいしいものを食べさせてくれたり、欲しいものを買ってくれたりします。そうなんです!おばあちゃんにとっては、多分ボクが一番価値がある人になるのです。こんなボクがですよ。
今こうして、ボクが自分の自我を保っていられるのは、おばあちゃんがいるからだと思います。

神様とか常識とか

おばあちゃんは、神様を信じています。和室の床の間には神様らしきものが祀られています。
その神様はどう見ても石です。直径20㎝程のその石は、赤いエプロンと帽子を被っています。おばあちゃんは毎日その石に向かってお経を唱えています。あまりにも毎日そのお経を唱えているので、うちの家族は全員そのお経を唱える事が出来るようになってしまいました。そして事あるごとに、神様が…神様が…と言います。何か悪い事があると、「神様にお経を唱えなさい」と言うので、何となく怪しいと思いながらも、言う事を聞いていました。しかし、いくらお経を唱えたところで、ボクの運気もやる気も変わりません。
それにしても、神様というのは便利なものですね。自分に振りかかる不幸や不運を全て背負ってくれるのです。お経を唱えるだけで安心を与えてくれるのです。それさえしておけばいいのですから、脳を使う必要がありません。だって、考えるから悩みや苦悩が生まれるのです。そしていくら頑張って考えても、答えが出ない時があります。考える事が楽しい時もありますが、ボクは悲観主義者なので嫌な事ばかり考えてしまいます。
そんな時には、これ一つで悩み解決 ”神様” です!
神様は人間が生み出した発明の中で最も長きに渡って、第一線で活躍している道具なんじゃないでしょうか?こんな事を言ったらバチが当たるかもしれませんね。
ほら、子供のうちから洗脳すれば ”現実主義者” のボクでさえこのざまです。でも、もうそろそろイイんじゃないですか?引退してもらっても、人類がここまで繁栄できたのは、文字通り”神様” のお蔭です。”神様” という概念があったからこそ、人はまとまり、協力し、団結し、困難を乗り越えて、ここまで発達してこれたのでしょう。しかし、そろそろ理論が破綻して来ています。明らかに整合性が取れていません。確かに人が見ていないところでもモラルを守るには、神様が有効です。神様に見られていると思えば、悪い事出来ませんからね。でも今は防犯カメラとかありますし。
悪い事が起きた後には必ず良い事が起こるとかいう謎理論とか、目に見えない力を信じることで、安心したい気持ちも分かります。でも、根本的な解決にはなっていませんよね。最近は、宗教による悪い部分だけが目立ちます。神様という概念の影響で、気付かない制約があるようにも見えます。
人間が今以上に進歩するには、神様という概念を捨てなければならないのではないでしょうか?
歴史を振り返ると、人間は愚かな行いをしてきました。争いが絶えませんでした。人間もただの生物ですから、生物としての本能があります。生存本能等により、争いが絶えませんでした。
でも、今はどうでしょうか?
競争は激しくなっていますが、争いは?50年前に比べて、100年前に比べて、300年前に比べて、1000年前に比べて、各段に少なくなって来ていますよね。人間はきちんと学んでいるんです。学んだ事を教育し、常識だった事をどんどん上書きしていっています。
古い常識は、非常識な事があります。その常識は本当に正しいですか? 自分の頭で一度考えてみて下さい。子供の頃に先生に言われた事で、何か納得がいかないと感じた事とかありませんか? テレビでこれが常識なんです! とか言っているのを聞いた時に、何か腑に落ちないとか感じた事はありませんか?
人の直感は生物としての防衛本能の様なものなのではないでしょうか? 人が百数十万年に渡って蓄積してきたDNAに刻まれたデータが警告を発した時は、面倒くさがらずに自分の頭で考え、調べてみて下さい。

ボクは誰? Who Am I ?

ボクは、およそ46億歳の星に生まれた約60兆個の細胞から成る一つの生物です。この星 ”地球” からしたら ”垢” 程の価値もないでしょう。そして人類というカテゴリーに属しています。人類ですら地球からしたら、夕方に発生する虫の大群程の価値もないでしょう。
かつて地球上に君臨したといわれる恐竜が存在していたのが約1億6000万年の間です。解釈によりますが、現在人類はまだ その100分の1程の年数しか存在していません。地球上の生物は繁栄と絶滅を繰り返しています。
勿論、星にも寿命がありますし、アニメのように星が消滅する寸前まで生物が存在できる訳ではありません。地球自体の寿命と地球上に生物が存在できる期間は同じではありません。
地球という星自体も生まれてから死ぬまでの間に変化し続けるのです。その変化している間の一定期間に、たまたま生物が存在出来ていられる条件が整っているだけなのです。

ボクは地球からしたら垢ほどの価値もありませんが、おばあちゃんからしたら一番大切な存在になります。つまり人には ”絶対的” な価値など無いのです。

本当のボクを知っているのはボクだけです。ボクが正しいと思う事を考え、行い、間違えたら、考え直し、行い、経験を積んでいくしかありません。知能を持った生物として生まれたのですから。

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